1986年次女として大阪に産まれました。
天然な母、無口なわりに口を開くと面白い調理師の父、
優しい心の持ち主である姉の間で末っ子としてスクスク育ちましたが、
大人の世界とは難しいもので、
あるゆる困難から家族の絆が大きく壊れるようなトラブルが多発。
思春期には自分を見失うような性格で、
とにかく自分に興味を失い、
自分という存在価値を置き去りにし、
とにかく人に認めてもらえる様、奮闘していたように思います。
小さい頃から病弱で、何かあればドクターストップ。
もう自分の力なんてものに興味も無く、
何がやりたくて、どう生きていきたいのかすら分からなくなっていました。
ある日、全てに絶望しかけた日、メニエル病になりました。
片耳が聞こえなくなって、病院の帰り道、雨の中バスを待っている間、
私の中の何かがプツンと切れた音がした様な気がしました。
その時、海外に行って自分の力を試してみたい(海外に逃げてしまいたい)という気持ちになりました。
なんとなく働き始めた雑貨屋の仕事、心地が良いと思う友達と毎日を過ごし、
このままこんな日が続けば良いのにと思いながらも、
反面私の将来はどうなっていってしまうのか?
ぽっかりと大きな穴が空いてしまった家族との絆、
今まで逃げ続けてきた自分の弱い部分に、きちんと向き合わなければ
誰かに大切にしてもらう事なんて到底出来ない、
どうにかしなければいけないという事に気付き始めたある日、
自分はどこまで”挑戦”できるのか?
を知ろうとしたきっかけが、
まさかの21歳の時にドクターストップで離れる事になった美容に携わる仕事から始まっていました。
体が弱い事を言い訳に、やりたい事をやめたのではなく、
本当に自分がやりたいこと、”できる事”
を海外に行って見つめ直したいという何となくの気持ちを、
実際に行動に起こしてみたのが、オーストラリア留学。
お金を貯め始めて1年半、必死に働いて、休みなく掛け持ちをし、
大好きだった洋服も最低限にして、貯金に励みました。
両親に留学は反対だと断固として許してもえなかった間、
とにかく説得するには行動が必要だと、必死で働いて貯金に励みました。
その姿を見た両親から留学を許してもらったのは1年後。
英語も勉強していたので、ビザ取得は自分で行い、エージェントは使わず。
「とにかく自分の力でやってみる」をベースに留学のために尽くしました。
私は小さい頃から、自分の中にもう一人の自分(友達みたいな存在?)を作って話すという癖?みたいなのがあります。
それは今も継続中で、何か起こったり、感じたり、何にも考えていない時も、ずーっともう一人の自分に問いかけたり、話しかけたりしているんです。
これは誰もが同じだと思っていたら、どうやらそれは普通ではないそうで、
それに気づいたのは、ラジオ配信の時、何にも考えずにとりあえずラジオ配信のスイッチを押して、
その時感じた事を話すという配信方法に驚いた友人に、どうやってそんな事ができるのか?と聞かれた時の事でした。
いつも自分に話している様な事をラジオに向かって話せば良いんじゃない?
と言ったら、友達は「え?」とはてながいっぱいだった様です(笑)
とある世界一周をした人のブログを読んでいたら、究極に危険な想いをしてから、自分と話す様になったと書いていて、衝撃を受けたのは私。
みんな何かきっかけがあって自分と話をする様になるんだと気が付きました。
小さい頃からやっているので、私は何がきっかけかは思い出せませんが、
とにかく自分を表現するというのは、何かしらいつも何かを感じて、それを言葉にして、
形にするなり、表現として表すなりを世界中の人が、それぞれ、自分のやり方でやっているんだなと
客観的に人をきちんと見れる様になったのは、まだ最近のことの様に思います。
自分の価値観で物差しを作って、そこに線引きをして人と関わっている様な事を
いつからかやっていて、それが窮屈になって爆発して、海外に行ったは良いけど、そこでもまだそれをやっていて、
ようやくその固定概念が、自分の足を引っ張っていた事に気づき始めたのは、
子供が大きくなってきて成長をそばで見させてもらっているのも大きいと感じます。
何かに縛られて、というより自分で縛っていた頃は、
全員にとって良い人でなければならない、失敗をおかしてはいけない、
真っ直ぐでなければいけない、後ろを見てはいけない。
なんて自分を縛り付ける生き方を勝手に選んでいて、本当に苦しかった。
常識、マナー、こうであるべき、という国それぞれの特性なども感じ、今まで実際住んだ国は、
日本、オーストラリア、フランス、サウジアラビア、モロッコ。
旅した国は、アジア、ヨーロッパ、アフリカ、中東、数えきれませんが、それぞれその国にある文化、宗教、貧困問題、環境など、必ずそこには問題が付き物で、100%完璧な国なんて存在しない事に気がつきました。
自由を求めても、結局人は一人では生きていくことはできません。
道のない山を一人で登ればよく分かります。
小さい頃から数回、3000メートルを超える山を10時間以上かけて登った事があります。
木曽御岳という群馬県と長野県に位置する山で、
今は噴火が原因で私が登っていたところは封鎖されている様ですが、今でも思い出す登山の素晴らしさ。
見る景色全てが、今まで見たものとは違い、
色も状態も、感じ方も、空気も、太陽も、
とにかく自然は大きく、時には恐怖へと変わります。
木曽御岳で数年前、登山中に噴火が起きて亡くなった人がたくさんいます。
それほど自然というものは、私たちよりも遥かに大きなもので、自分の力ではどうする事も出来ないものです。
最近道のない山を登っていて、気付いた事があります。
自分がいる場所がいかに危険かは、自分からは分からない時があること。
今までの経験でついた自信や概念で、かなり急な崖にいることに気がつかず、
どんどん前に進んでしまい、引き戻そうと後ろを見たらもう誰もおらず、
その瞬間足がすくみ、自分を信じることでしか前に進めず、目に見えない神様という存在に縋りながら、
どうか元いた場所へ戻り、家族に会いたいと願う。
これは人生で何度も経験していた事だと感じました。
夫がそこは来た道じゃない、とっても危険だからこっちに行こう。
と言っていたにも関わらず、登山には慣れていると過剰に自信を持っていた固定概念からかなり危ないところまで進んでしまっていました。
あの時、自分という本性を知れた感覚がありました。
私はいつも助言をしてくれていた夫の話に耳を傾けず、危ない所まで来て、助けてもらっていたんだと。
両親も同じでしょう。私の危ない行動に目を瞑りたくなった事は山ほどあったはず。
それでも見守ってくれていた、もしくは見放されていた?笑
今がある事は、全て私に関わってくれている人たち、必要な人たちなんだと。
そこから気づき、前を向いていくためには、固定概念を捨て、前を向いて、時には後ろを振り返って戻っても良い。
人は間違えるもの。
誰かが助言してくれている時は、耳を傾けて聞いてみるべき。
そこで自分が間違っていたら、また引き戻せば良い。
自分という人間がどういう人なのか?
確認しながらゆっくり進めば良い。
そう思いながら、いつかこの世で誰一人辛い思いをしない日が来るように、
平和を祈り、自分を清く、心を保てるように、
日々昇進しながら死を遂げ、最期の日が来るまで、心穏やかに過ごしたいと心から願います。
私にとって、人生は旅であり、誰しもが一度は道に迷い、後悔し、悔い改め、
翼を低く垂れ生きていくことの大切さを学び、他人と共に助け合い生きていくものだと思っています。
時には難しく、長く同じ場所にとどまっている事はあるけれど、そこから飛び出すのも、
そこにしばらく留まって、少し様子を見るのも、全ては自身の選択肢。
私は1日に5回祈りを捧げますが、この祈りの時間は完全に自分の見直しの時間です。
完全に一人になって、目に見えない大きな存在に、ただただ自分という人間を清く穏やかにしてもらいたいと願い、
いつかお側に置いてほしい。
自分を創造した方の元へ少しでも清い心で還りたい。
ただ、それだけ。
私という人間。
少しずつ、自分の魂の部分が欲するものを感じられるように歳を重ねているように思います。
生まれてきた意味は?
私に何ができる?
そんな大それた事よりも、今私に与えられている事全てに感謝をして、
少しでも全人類が幸せを感じられる世界を想像して。
私という人間。毎日アップデート中です。